テレビショッピングやラジオショッピングで、「○○を見た(聞いた)とお伝えください」

この一文、たったそれだけなのに妙に重い。
買うか買わないかは、もう決めてる。
値段にも納得してる。欲しい気持ちもある。
なのに、喉元に小骨が引っかかる感がある。
「○○を見た(聞いた)、と言わねばならない」という、あの儀式である。
別に悪いことをしてるわけじゃない。
万引きの自首でもなければ、恋文の朗読でもない。
ただ注文するだけだ。
それなのに、いざ電話がつながると少し姿勢が正される。
声も、ほんの少しだけよそ行きになる。
なんなんだこの感じ。
通販ひとつで、入学式の保護者みたいな顔になるのは。
たぶんあれは、あの芝居じみた「広告に動かされた人」だと、口に出して認める瞬間だからだと思う。(もちろん通販番組のやりとりは、演出である)
ふだん人は、自分のことをそんなに単純だと思いたくない。
理性的です。冷静です。必要なものを必要に応じて選びます。
そういう顔で生きていたい。
なのに電話口で「ラジオを聞いた」と言った瞬間、自分の中の“冷静な消費者”が、そうでなくなる。
試食コーナーでもらったウインナーをもう一周しに行くおじさんみたいな気分になる。

しかも相手はオペレーターだ。
向こうは毎日何百回も聞いてる。
こっちが「見ました」と言おうが「聞きました」と言おうが、心の中では、味噌汁の具くらいの感情しか動いていない。
なのにこっちは、なぜか少し照れる。
一人だけ拍手のタイミングを間違えたみたいな、あの薄い恥ずかしさ。
ここが人間のおもしろいところで、恥ずかしいのは“大事件”だからではない。
むしろ逆だ。
ものすごく小さいことなのに、自分の輪郭だけが妙にくっきりする時、人は気恥ずかしくなる。
通販の注文なんて、社会全体から見れば砂粒より小さい。
でも本人の中では、その瞬間だけ…
私は今、ラジオショッピング経由で黒にんにくを買う人間です
という、妙に具体的な肩書きが発生する。
この具体性が、じわっと恥ずかしい。
人は抽象では強いが、具体では少し赤くなる生き物なのだ。

でも、ここで救いもある。
その恥ずかしさは、別にダサさの証明じゃない。
むしろ、ちゃんと自意識が働いてる証拠だ。
人は「自分はどう見えるか」を少し気にする。
その微熱みたいな感覚があるから、人は人でいられる。
何も感じず、機械みたいに「見た」「聞いた」と言える世界もあるのかもしれないが、それはそれで味気ない。
少し照れながらも、必要なものはちゃんと買う。
この不器用さ、わりと嫌いではない。

だから次に「○○を見たとお伝えください」と言われても、気恥ずかしさごと口に出せばいい。
どうせ向こうは慣れてるし、こっちは一瞬むずがゆいだけだ。
靴の中に小さな石ころが入ったみたいな違和感はある。
でも歩けないほどじゃない。
むしろ、その石ころがあるから「あ、生身の人間なんだな」と再認識できる。
…とはいえ、できれば言わなくても割引を適用して欲しいと願う。
そこだけは、どう考えても人類の改善余地である。
◆
黒ニンニクを長期休暇中にめいっぱい食べようと思ってる。
もう少しでゴールデンな一週間が来るので。